許されている空気が、ある。
“`html目つきが鋭いからか。長年の信用か。それとも、ただの空気か。同じことをやっても、あいつだけ誰も何も言わない。半年間、観察し続けて分かったことがある。
職場には、紙に書かれたルールと、書かれていないルールがある。そして後者のほうが、圧倒的に強い。に〇〇という男を半年間観察して、初めてそれを体感した。あいつは書かれていないルールを誰よりも正確に把握していた。あるいは、あいつ自身がそのルールを作っていたのかもしれない。
マッシュヘアで、目つきが妙に鋭い。いま風というか、高校のときにイケメン枠だったやつが、そのまま三十代にスライドした感じ。体育会系ではないが、どこかその片鱗がある。カイロを常に持ち歩いていて、暇なときはかしゃかしゃ鳴らしながら売り場をぶらつく。掴みどころがない。でも、存在感だけは妙にある。
バックヤードからカウンターへ行く最短ルートがある。客がよく通る通路と被るから、建前上は禁止されている。俺は律儀に遠回りをする。毎回。に〇〇はそこを普通に通る。堂々と。立ち止まりもしない。バックヤード入退時の礼もしない。客の前でも頭を下げない。それでも誰も何も言わない。上司も、先輩も、同僚も。
これは「に〇〇が悪い」という話ではない。に〇〇がやっていることは、職場の誰もが薄々やりたいと思っていることだ。問題は、それが「あいつだからいい」で完全に処理されていることだ。同じことを俺がやれば、確実に何か言われる。それは分かっている。
線を踏み越えても、に〇〇なら通る。俺ならアウトだ。そういう非対称が、説明なしで毎日積み上がっていく。
に〇〇は時々こちらに絡んでくる。気まぐれに、唐突に。そして次の日には何事もなかったように無視する。最初は戸惑ったが、半年も経つとパターンが見えてきた。あいつの中に、俺への一貫した態度など最初からない。
に〇〇の行動に一貫性はない。あるのは「自分のペースで動く」という一点だけだ。機嫌がいいときは絡んでくる。興味がないときは無視する。相手に合わせる気が根本的にない。でもそれが、なぜか嫌味に見えない。
半年間考えて、一つの結論に辿り着いた。に〇〇が許されているのは、「あいつはそういうやつだ」という共通認識が職場に完成しているからだ。その認識は誰かが作ったわけじゃない。に〇〇が長い時間をかけて、自分の行動で積み上げてきたものだ。ルールを破ることより、ルールを破り続けて誰にも何も言わせない空気を作ることのほうが、ずっと難しい。あいつはそれをやってのけている。
どれが正解かは分からない。全部かもしれない。ただ一つ確かなのは、に〇〇はそれを意識的にやっているわけじゃないということだ。ただ自分のペースで動いているだけで、結果としてその空気ができている。それが一番タチが悪い。狙ってできるものじゃない。
こういうことを考えてしまう自分が、少し嫌になる。に〇〇はたぶん、俺のことを考えていない。少なくとも、俺が考えているほどには。観察している側と、観察されていない側。その非対称が、すでに答えを出している気がする。考えてしまう時点で、もう負けているのかもしれない。でも、見てしまう。どうしても。